香りの実践・生活

封を開けると、あなたがいた。

香りを移した手紙と、不在の人の気配

特別な手紙にだけ、香水をつけて送ったことがあります。

便箋に直接吹きかけると強すぎるので、空中にひと吹きして、その下に紙をくぐらせたのだったか。封筒の内側に、ごくわずかに移したのだったか。もう細かなことは忘れてしまいました。

それでも、なぜ香りをつけたのかは覚えています。

言葉だけを届けたくなかったから。

手紙は、読む前から届いている

手紙には、文章になる前の情報があります。

選ばれた紙。
文字の大きさ。
筆圧。
折り目。

封筒を閉じた手の動き。

受け取った人は、まだ一行も読まないうちに、その手紙が急いで書かれたのか、静かな時間を取って書かれたのか、何となく感じ取ります。

香りも、そこに加わるものの一つです。

封を開いたとき、かすかな香りが立つ。それは、文章の内容を説明するわけではありません。けれど、そこに誰かがいたことを伝えます。

メールやメッセージにも、もちろん人の気持ちは宿ります。ただ、画面に現れる文字は、送り主がどこで書いても同じ形です。

紙の手紙は違います。

便箋や封筒を選び、
万年筆、ボールペン、毛筆、書く道具も選び、
触れ、折り、封をする。

それらが、そのままこちらへ移動してくる。

香りをつけた手紙では、遠くにいる人の身のまわりにあった空気まで、ほんの少し届くのです。

香りもまた、差出人の言葉だった

平安時代の貴族たちは、手紙の料紙に香を焚きしめました。

現代のように液体の香水を吹きかけるのではなく、香を焚き、その香気を紙や衣に移します。

とりわけ恋文では、書かれた和歌だけでなく、紙の色や質、筆跡、折り方、添えられた枝、そして紙に移された香りまでが、差出人を表すものとして受け取られていました。

当時の恋文は、単に思いを告げる文章ではありませんでした。
姿を見る機会の限られた相手に、自分がどのような人間であるかを伝えるものでもあったのです。

香りの選び方は、その人の趣味や洗練を印象づけ、ときには雅びな人とも、野暮な人とも感じさせました。〔1〕

香りは、文章の最後に添える飾りではなかったのでしょう。

言葉を読むより先に、差出人の人物像を立ち上げる、もう一つの言葉でした。

不在の人は、匂いになって現れる

香りが運ぶものは、差出人についての情報だけではありません。

ある匂いを嗅いだ瞬間、長く思い出していなかった場所や人が、不意に戻ってくることがあります。

嗅覚をきっかけとして呼び起こされる自伝的な記憶は、同じ対象を写真や音で示された場合よりも、感情を強く伴い、「そのときへ戻った」ような感覚を生みやすい傾向があると報告されています。〔2〕

香りは、相手の顔を描くわけではありません。声を再生するわけでもありません。

それなのに、その人がいた部屋や、会った季節や、隣に座ったときの距離まで、ひとまとまりにして連れてくることがあります。

写真を見ると、私たちはその人を見ます。

声を聞くと、その人が話していた言葉を思い出します。

香りに触れたときは、その人がいた時間の中へ、こちらの身体が一瞬だけ戻っていく。

だから、香りを移した手紙は、単なる通信ではなかったのかもしれません。

遠くにいる人の気配を、受け取った人の部屋に一時的に作り出すものだったのです。

香りは、書きすぎない

香りをつけた手紙には、加減が必要です。

香水の存在がはっきり分かるほど強く残せば、香りが文章を押しのけてしまいます。手紙を開いた人が、「香水がつけてある」と認識するより先に、何か懐かしいものに触れたような気持ちになる。そのくらいが、きっと美しいのでしょう。

それは自己紹介というより、余韻に近いものです。

特別なお礼状や、親しい人に送る私信に、いつも身につけている香りをほんの少し移す。

そこにあるのは、「私の香りを覚えてください」という強い主張ではありません。

この手紙を書いた時間に、私がここにいたこと。
あなたを思いながら、この紙に触れていたこと。

その事実を、言葉の外側に残しておくのです。

言葉が読み終わったあとに

現在は、離れた人にもすぐに言葉を送れます。

考えたことも、見た景色も、その日の出来事も、ほとんど時間を置かずに共有できます。けれど、速く正確に送れるようになるほど、送り主の身体は通信の中から消えていきました。

画面の文字には、紙の手触りも、書いた人の筆圧も、その人の部屋に漂っていた香りも残りません。

だからこそ、手書きの手紙に香りを移すという小さな作法は、今も古びていないように思います。

封を開けると、言葉より先に、その人の気配が立つ。

読み終えたあとも、紙のどこかに香りが残る。
机の上に置いておけば、ふとした拍子に、もう一度その人が現れます。

香りをつけた手紙とは、不在を埋めるものではありません。

でも遠く離れていることを知ったまま、
その距離をほんの一瞬だけやわらかくするものです。

「忘れないで」と言うよりも控えめに。
「会いたい」と書くよりも静かに。

あなたのそばに、ほんの少しだけ、私を置いていきます。

そう伝えるための、方法。
古い時代の方が親密なコミュニケーションだったのかもしれません。


参考文献・資料

〔1〕大阪府立中央図書館「平安時代において、紙や手紙に香を焚くことについて記載された資料が見たい」国立国会図書館レファレンス協同データベース。紹介文献:尾崎左永子『源氏の薫り』求龍堂、1986年/秋澤亙ほか編『王朝文化を学ぶ人のために』世界思想社、2010年/安田政彦『平安京のニオイ』吉川弘文館、2007年。

〔2〕Rachel S. Herz, “A Naturalistic Analysis of Autobiographical Memories Triggered by Olfactory, Visual and Auditory Stimuli,” Chemical Senses, Vol.29, No.3, 2004, pp.217–224.

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