香りの教養

静物画は、時間を描いている

動かない物のなかに、過去と未来を見る

食べ終えたあとのテーブルには、少し前までそこにいた人の時間が残っています。

空になった皿。傾いたグラス。折り目の崩れたナプキン。途中まで皮をむかれた果実。

人の姿はありません。けれど、何も起きていないようには見えない。

誰かが腰を下ろし、手を伸ばし、食べ、飲み、そして席を立った。その一連の出来事が、物の配置として残されています。

静物画とは、動かない物を描く絵です。

しかし、その画面を眺めていると、物そのものよりも、その前後にあった時間が見えてくることがあります。

静止しているはずの絵のなかで、時間だけが動き始めるのです。

物を描くことは、低い絵とされていた

ヨーロッパの美術では、長いあいだ、描く題材に序列がありました。

神話や聖書、歴史上の出来事を扱う歴史画が最も高く評価され、その下に肖像画、風景画、静物画などが置かれました。人間の行為や精神を描くことに比べれば、器や果実を描くことは、より低い仕事と考えられていたのです。こうしたジャンルの序列は、16世紀以降、ヨーロッパの美術教育にも大きな影響を与えました。(ナショナル・ギャラリー)

ところが、17世紀初頭のネーデルラントでは、静物画が独立したジャンルとして大きく発展します。

都市化が進み、商業や交易が盛んになり、人々の関心が家庭、所有物、学問、日々の楽しみへと向かうなかで、身近な物もまた絵画の主題になっていきました。花、食物、書物、楽器、銀器、磁器。人が暮らしのなかで所有し、眺め、味わうものが、画面の中央に置かれるようになったのです。(The Metropolitan Museum of Art)

これは、単に絵の題材が増えたということではありません。

人間の大きな物語ではなく、暮らしのなかにある物にも、見るべきものがあると認められたということです。

そして、物を丁寧に見つめることによって、画家たちは、人物を描かずに人間の時間を描くようになりました。

食べ終えた卓に残る、直前の時間

17世紀のオランダでは、食卓を描いた静物画が数多く制作されました。

パン、チーズ、牡蠣、魚、ワイン、ビール。簡素な朝食を思わせる作品もあれば、銀器や珍しい食材を並べた豪華な宴席画もあります。

けれど、多くの食卓は、食事が始まる前のように整然とはしていません。

グラスは倒れ、牡蠣の殻は開き、ナプキンにはしわが寄り、果物の皮が卓上から垂れています。

たとえばピーテル・クラースゾーンが1627年に描いた《孔雀のパイのある静物》には、孔雀の羽根を飾ったパイ、雉、果実、菓子、レモン、中国磁器の器、ワイン、貴重な塩が並びます。画家は実在の一回の食事を再現したのではなく、当時のオランダ共和国の繁栄と交易の広がりが伝わるよう、さまざまな品を選び、構成しました。(ナショナル・ギャラリー・オブ・アート)

それでも、画面は単なる商品見本のようには見えません。

空のグラス、丸められたナプキン、途中まで切られたレモン、ナイフの革製ケース。

そこには、人が食卓に着き、物に触れた痕跡があります。

人物を描かなくても、食事をした人の存在は消えない。

むしろ、人が画面から立ち去っているからこそ、直前まで流れていた時間が強く感じられます。

静物画が描いているのは、食べ物だけではありません。

食事が出来事へ変わり、出来事が痕跡へ変わった、その瞬間です。

花束に集められた、存在しない時間

花の静物画には、また別の時間があります。

17世紀初頭の花卉画には、異なる季節に咲く花や、異なる国や大陸に由来する植物が、一つの花瓶に集められているものが少なくありません。画家たちは植物図譜や花の習作を参照し、現実には同時に咲かない花々を、一つの画面のなかで咲かせました。(The Metropolitan Museum of Art)

花の静物画は、一瞬を写したものとは限らないのです。

春の花と夏の花。咲き始めた蕾と、開ききった花。遠い土地からもたらされた珍しい植物。

それぞれ異なる時間を生きる花々が、絵のなかでは一度に最盛期を迎えています。

長いあいだ、オランダの花卉画家は季節ごとに花を描き足していったと考えられていました。しかし現在では、画家が花の習作を蓄え、あらかじめ構想した画面に組み合わせたとみられています。レイチェル・ライスの作品も、そうした制作方法によって構成されていたと考えられています。(ナショナル・ギャラリー)

逆に、ディルク・デ・ブライの《白い石の花瓶の花》は、すべて同じ春の季節に咲く花を描いた、当時としては珍しい作品です。実際に一つの花束を前に描くことができた点が、ほかの花卉画との違いとして指摘されています。(ナショナル・ギャラリー)

こうした違いを知ると、花の静物画の見え方が変わります。

そこに描かれているのは、自然の時間を保存した花束ではない。

自然には存在しない時間を、人間が組み立てた花束です。

絵画は花が萎れるのを止めるだけでなく、本来は出会わない季節まで、一つの場所に集めてしまう。

花卉画とは、時間を保存する絵であると同時に、時間を編集する絵でもあったのでしょう。

卓上に積み重なる、遠くから来た時間

静物画に描かれた物には、それぞれ異なる距離と来歴があります。

中国の磁器、ヴェネツィアのガラス器、銀に金を施した杯、輸入された果物や香辛料。

17世紀半ば以降の豪華な静物画では、こうした高価な品々が、暗い背景のなかにきらめくように配置されました。オランダ語で「誇示する」「豪華に飾る」といった意味をもつプロンク静物画は、所有物の価値や希少性を、絵画そのものの華やかさによって示しました。(The Metropolitan Museum of Art)

一つのテーブルの上に、遠い地域から届いた品物が集められる。

そこには、花卉画とは違う意味で、複数の時間が重なっています。

植物が育つ時間。器が作られる時間。品物が船に積まれ、海を渡り、市場で売買され、所有者の手に届くまでの時間。

絵の表面に見えるのは、完成した物だけです。

それを運んだ船や人々、費やされた労働、通過した土地は描かれていません。

けれど、一つひとつの物は、長い移動の時間を背負っています。

静物画の卓上は、単なる室内の一角ではありません。

世界の遠い場所で進んでいた複数の時間が、一時的に集められた場所なのです。

ヴァニタスが描いた、これから失われる時間

静物画と時間の関係が、最も明確に現れるのがヴァニタスです。

頭蓋骨、時計、砂時計、消えかけた蝋燭、煙、泡、切り花。

これらは、人間の生や富、知識、快楽が永遠には続かないことを示します。

ジャック・ド・ヘイン2世が1603年に描いた《ヴァニタス静物画》は、独立したヴァニタス静物画の最初期の例とされています。頭蓋骨、大きな泡、切り花、煙を出す壺が、生命の短さと人間の愚かさを示すものとして配置されています。(The Metropolitan Museum of Art)

ただし、静物画のすべてを死の暗示として読む必要はありません。

豪華な食卓は繁栄をたたえることもあり、花卉画は自然や知識、収集の喜びを表すこともあります。静物画には道徳的な警告もあれば、物の美しさを見せることそのものを目的とした作品もありました。(The Metropolitan Museum of Art)

それでも、静物画に描かれる物の多くは、時間と無関係ではいられません。

花は萎れ、果実は熟れすぎ、火は消え、食物は食べられる。

銀器や磁器のように長く残る物でさえ、持ち主や時代は変わります。

ヴァニタスは、その事実を象徴によって強く語りました。

けれど、その予感は、ヴァニタス以外の静物画にも、薄く漂っています。

美しい物を描き残そうとすること自体が、それが変わり、失われるものであることを知っている行為だからです。

絵は止まっているのに、時間は止まらない

静物画のなかでは、すべてが止まっています。

花びらは落ちず、グラスはそれ以上傾かず、泡は割れず、蝋燭の煙も消えません。

しかし見る側は、その続きがどうなるかを知っています。

花はいずれ萎れる。
果実は乾く。
食卓は片づけられる。
人はその場を去る。

画面には描かれていない変化を、私たちは自分の経験から補っています。

だから静物画は、動かない物を描きながら、時間の流れを感じさせます。

そこにあるのは、一つの「今」だけではありません。

少し前までここにあった時間。
遠くから運ばれてきた時間。
人間が組み直した時間。
これから失われていく時間。

静物画は、それらを一枚の画面に留めています。

香りが知らせる、もう一つの時間

香りもまた、一つの状態にとどまりません。

果物の皮をむいた直後の香り。花を部屋に飾った日の香り。食事を終え、人が席を立ったあとの空気。

同じ物から生まれた香りでも、時間とともに表情は変わっていきます。

静物画を見て、実際にその匂いまで思い出す必要はありません。

絵と香りの接点は、もっと静かなところにあります。

どちらも、物そのものだけでなく、物を通過した時間を知らせるということです。

一日の終わり、部屋にはさまざまな物が残ります。

読みかけの本。空になったカップ。花瓶から落ちた花びら。椅子に掛けた服。

そしてその周囲には、淹れた茶や、切った果物や、夕食や、外から持ち帰った空気の香りが、まだわずかに残っています。

暮らしている最中には見えなかった一日が、物音が静まったあと、ひとつの景色になる。

静物画が描いてきたのは、止まった物ではなかったのかもしれません。

物のなかに残り、物の先へ流れていく時間。

人が去ったあとにも、そこにあったことを伝え続ける、暮らしの時間だったのです。


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