香りの教養

アゲハ蝶を導く、香りと色と脚の感覚

ある日、ベランダのレモンの木に、小さな卵がついている。

やがて、鳥の糞のような姿をした幼虫が現れ、日に日に葉が欠けていく。鉢植えを置いた人間にとっては、少し困りながらも、どこか嬉しい出来事です。

しかし、ふと不思議になります。

果樹園でもなければ、広い庭でもない。道路と建物に囲まれた街の中で、アゲハ蝶は、どうやってこの一本のレモンの木を見つけたのでしょう。

人間が見ても、道路からはほとんど見えないような小さな木です。それでも蝶はやってきて、無数にある植物の中から、幼虫が食べられる葉を選び、そこに卵を残していきます。

蝶たちには、人とは違う都市の地図が見えているのでしょうか。

街のどこかに、柑橘の木がある

都心には、広大な柑橘畑はありません。

その代わり、庭先のミカン、玄関脇のユズ、マンションのベランダに置かれたレモン、植栽のサンショウといった、小さな緑が点々と存在しています。

人間の地図で見れば、それらは互いに関係のない鉢植えや庭木です。

けれど、ミカン科の植物を幼虫の食草とするナミアゲハにとっては、次の世代を託すことのできる場所です。街の中に散らばった一本一本の木が、蝶にとっての産卵地点になります。

もっとも、アゲハ蝶が上空から都市を見渡し、レモンの木の位置を記憶しているわけではありません。

蝶は飛びながら、空気中の化学物質、植物の色や形、光の反射といった複数の手掛かりを拾い、少しずつ候補を絞り込んでいると考えられます。

その最初の手掛かりの一つが、植物の放つ香りです。

蝶は、レモンの実を探していない

私たちが「レモンの香り」と聞いて思い浮かべるのは、果皮を切ったときに弾ける、明るく鋭い香りです。

しかし、産卵場所を探すアゲハ蝶が必要としているのは、レモンの果実ではありません。孵化した幼虫が食べることのできる、葉です。

植物の葉もまた、さまざまな揮発性物質を空気中へ放っています。

日本に生息する複数のアゲハ属を調べた研究では、蝶の触角が、ミカン科を含む寄主植物の葉から出る揮発性成分に電気生理学的な反応を示すことが確認されています。また、蝶の種類によって、反応しやすい植物の香気成分には違いが見られました。〔1〕 (PMC)

つまり、私たちには「青い葉の匂い」としか感じられない空気の中にも、蝶にとっては植物を見分けるための情報が含まれています。

ただし、ここで少し注意が必要です。

現在の研究から、アゲハ蝶が都心の何百メートルも先から、ベランダの一本のレモンを正確に嗅ぎ当てている、とまでは言えません。

植物の香りは風に流され、薄まり、建物に遮られます。一直線に続く香りの道が、レモンの木から蝶のところまで伸びているわけではないでしょう。

蝶は飛びながら、断続的に現れる香りの気配を拾います。

「レモンは、あちらにある」と場所を示す住所ではなく、
「この辺りには、探すべき植物がある」と探索を始めさせる合図。

香りは、蝶のために引かれた一本の道というより、街の空気の中に浮かぶ、小さな標識なのかもしれません。

香りが、見るべきものを変える

香りの手掛かりを得た蝶は、次に植物の姿を見ます。

ナミアゲハの産卵を調べた実験では、蝶は柑橘の木にあるすべての葉を同じように選ぶわけではありませんでした。高い位置にあり、平らで、緑の反射が強く、明るく見える葉ほど、卵を産みつけられやすい傾向が確認されています。〔2〕 (PMC)

蝶の世界では、「緑」は一色ではありません。

葉の若さ、厚さ、傾き、表面の光沢によって、反射する光は変わります。私たちにはほとんど同じに見える葉の中から、蝶は幼虫に適した一枚を選び出しています。

嗅覚と視覚は、それぞれ別々に働いているわけでもなさそうです。

花を探すナミアゲハを使った研究では、周囲にある植物の香りによって、蝶が最初に選ぶ色が変化しました。これは採餌場面での研究であり、産卵場所の探索を直接調べたものではありません。それでも、香りが単に対象へ引き寄せるだけでなく、「どの色に注意を向けるか」にまで影響しうることを示しています。〔3〕 (PMC)

香りを感じたあと、街の緑が、それまでとは少し違って見える。

蝶にとっての香りとは、目的地を教える情報であると同時に、見るべきものを浮かび上がらせる働きも持っているのでしょう。

最後は、脚で味わう

それでも、近づいて見ただけでは、産卵は決まりません。

レモンの葉に降りた雌のアゲハ蝶は、前脚で葉の表面を細かく叩くような動きをします。「ドラミング」と呼ばれる行動です。

踊っているようにも、足踏みをしているようにも見えますが、蝶はこのとき、葉を味わっています。

雌の前脚には、化学物質を感じ取る感覚器があります。葉の表面に脚を触れ、植物に含まれる成分を調べて、幼虫の食べられる植物であるかを確認しているのです。

ナミアゲハでは、柑橘類に含まれるシネフリンという物質を認識する味覚受容体が特定されています。この受容体の働きを弱めると、シネフリンを手掛かりとした産卵行動も大きく低下しました。〔4〕 (Nature)

ただし、シネフリン一つを感じれば、機械的に卵を産むわけではありません。

ウンシュウミカンの葉からは、シネフリンを含む十種類の産卵刺激物質が特定されており、それらが組み合わさることで、強い産卵行動が引き起こされます。〔5〕 (J-STAGE)

ナミアゲハは、一つの成分だけで「レモンだ」と判断しているのではありません。

いくつもの味を重ね合わせ、植物の化学的な輪郭を確かめています。

遠くでは香りを感じ、近づけば色と光を見て、最後には脚で味わう。

アゲハ蝶がレモンの木を見つけるまでには、一つの鋭い能力ではなく、複数の感覚を受け渡していく過程があります。

香りは、地図ではなく探索の始まり

私たちは、動物の優れた嗅覚について語るとき、つい「遠く離れた匂いを正確に嗅ぎ分ける能力」を想像します。

けれど、アゲハ蝶とレモンの関係から見えてくるのは、もう少し動的な世界です。

香りだけで答えにたどり着くのではありません。

香りに気づいたことで飛ぶ方向が少し変わり、目の前の緑に注意が向き、近づいて候補を見つける。葉に降りて、脚で触れ、そこで初めて、卵を預けるかどうかを決める。

香りは完成された地図ではなく、探索を始めるための情報です。

確かな道がなくても、手掛かりを拾いながら飛び、近づくほど感覚を切り替え、最後は自分の身体で確かめる。

そうして蝶は、コンクリートに囲まれた街の中から、一枚のレモンの葉にたどり着きます。

一本のレモンが、都市の生態系になる

人間にとって、ベランダに置かれたレモンは、一鉢の園芸植物です。

その葉が空気中に微かな物質を放ち、蝶が訪れ、卵を産み、幼虫が葉を食べ始めた瞬間、そこには別の世界が開きます。

鉢の中の土と、数本の枝と、わずかな葉。

それだけの場所が、ある生き物にとっては、次の世代が生まれる場所になる。

都市の自然は、必ずしも大きな森や公園の中だけにあるものではありません。

庭先に一本の木を植えること。
ベランダに小さな鉢を置くこと。

人間には互いに孤立して見える小さな緑も、蝶の飛翔と感覚によって、ゆるやかにつながっていきます。

アゲハ蝶は、街の全体を知っているわけではありません。

ただ、空気の中に現れる香りの気配を拾い、見るべき緑を見つけ、葉に触れて確かめている。

私たちが知らないところで、都市にはそんな探索が繰り返されています。

一本のレモンの木は、ただそこに置かれているだけではありません。

人間には見えない、小さな香りの標識を、今日も街の空気へ送り出しているのです。

どうでしょう。
あなたのベランダにも、レモンの木を置いてみたくなりましたか?


参考文献・資料

〔1〕Inoue, T. A. et al., “Behavioral and Electrophysiological Study on Eight Japanese Papilio Species with Five Hostplant Volatiles and Linalool,” Journal of Chemical Ecology, Vol. 49, 2023, pp. 397–407.

〔2〕Nagaya, H., Stewart, F. J. and Kinoshita, M., “Swallowtail Butterflies Use Multiple Visual Cues to Select Oviposition Sites,” Insects, Vol. 12, No. 11, 2021, Article 1047.

〔3〕Yoshida, M., Itoh, Y., Ômura, H., Arikawa, K. and Kinoshita, M., “Plant Scents Modify Innate Colour Preference in Foraging Swallowtail Butterflies,” Biology Letters, Vol. 11, 2015, Article 20150390.

〔4〕Ozaki, K. et al., “A Gustatory Receptor Involved in Host Plant Recognition for Oviposition of a Swallowtail Butterfly,” Nature Communications, Vol. 2, 2011, Article 542.

〔5〕Ohsugi, T., Nishida, R. and Fukami, H., “Multi-Component System of Oviposition Stimulants for a Rutaceae-Feeding Swallowtail Butterfly, Papilio xuthus,” Applied Entomology and Zoology, Vol. 26, No. 1, 1991, pp. 29–40.

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