香りの実践・生活

日が暮れる頃、香りで一日を閉じる

昼の時間を香りで終える

昼夜という時間が、少し曖昧になった気がします。

仕事が終わっても、メールは届く。
外が暗くなっても、部屋の中は昼間とほとんど変わらない。
時計を見れば18時、19時と数字は進んでいるけれど、身体のほうには「ここで今日が終わる」という明確な境目がありません。

昔は、もう少し違っていたようです。

日が傾けば、部屋の光が変わる。
灯をともす。戸を閉める。
食事の支度をする。

そして、そのような夕暮れの作法のなかには、しばしば香りがありました。

眠るための香りではありません。

もっと手前にあるものです。

昼の時間をここで終える。
そのことを、自分の身体に知らせるための香りです。

夕暮れには、かつて「作法」があった

日本の仏教文化には、一日を朝と夕で区切る習慣があります。

たとえば浄土真宗では、家庭のお仏壇の前で朝夕に勤行する習慣が長く受け継がれてきました。真宗大谷派によれば、「正信偈」を朝夕のお勤めとして読むことが定着したのは、およそ五百年前、蓮如の時代までさかのぼります。[1]

仏壇には灯明があり、香炉があります。

現在の本願寺派でも、家庭の仏壇を荘厳する基本として「灯明・お香・仏花」が挙げられています。[2]

つまりそこには、声だけではなく、

火をともす。
香を供える。
座る。
手を合わせる。

という、身体を伴った一連の動作がありました。

もちろん、これを「昔の日本人は夕方になると、香りによって一日の終了時刻を知らせていた」と言ってしまうのは正確ではありません。

香は時計の代わりではなく、第一には仏に供えるものであり、夕のお勤めも信仰の行為です。

けれど結果として、その行為は毎日の暮らしのなかに、ひとつの境目をつくっていました。

本願寺が紹介している、ある女性の日課が印象的です。

彼女は朝、身支度をすると仏壇の前に座り、一日のはじまりを告げます。そして夕刻になると、再び仏壇の前へ戻り、「今日もおかげさまの一日でした」と挨拶をして、お勤めをしていたといいます。[3]

朝に一度。

夕方にもう一度。

同じ場所に座ることで、一日はひとつの形を与えられる。

現代の私たちが失いつつあるものは、こういう時間の輪郭なのかもしれません。

時計の数字ではなく、燃えていくもので時間を知る

さらに東アジアには、香と時間がもっと直接に結びついた文化もありました。

中国で使われていた「香時計」です。

粉末状の香を決められた道筋に敷き、その燃焼の進み方によって時間を測る。Science Museum Groupが所蔵する香時計も、そのような仕組みで時間を計るもので、中国では千年以上にわたって、実用・宗教・娯楽などさまざまな用途に用いられてきたとされています。[4]

記録上、十一世紀にはすでに公共の時間計測に香が用いられていました。また家庭用の小型の香時計もあり、香煙の立ち方や香りの変化そのものが、時間の経過を感じさせる存在になっていたようです。[5]

これは、いまの時計とはかなり違います。

デジタル時計の「18:30」は、その瞬間を示すだけです。

けれど香は、燃えながら時間をつくります。

少しずつ短くなり、灰を残し、部屋の空気を変えていく。

時間が経ったことを、目だけでなく鼻でも知る。

そこでは時間とは、数字というより、何かがゆっくり変化していく現象だったのかもしれません。

西の夕暮れにも、灯と香がある

興味深いことに、夕暮れを儀式によって迎える文化は東アジアだけのものではありません。

キリスト教には、日没の頃に行われる夕べの祈り、Vespers(晩課)の伝統があります。

その古い形式には、夕暮れに灯をともす「ルチェルナリウム」と呼ばれる儀礼がありました。バチカンの解説では、古代には日が沈んだあと家庭で油のランプをともすこと自体が、喜びや共同体の時間と結びついており、キリスト教の共同体も夕暮れに灯をともし、祈ったとされています。[6]

夕べの祈りでは、香も象徴的に現れます。

詩篇141篇には、祈りが香のように立ち上るという表現があり、バチカンによる晩課の説明でも、暮れていく光、灯されるろうそく、そして香になぞらえられる祈りが、一続きの夕べの風景として語られています。[7]

日本の仏壇と、キリスト教の晩課を、同じ習慣だったと言うことはできません。

宗教も意味も違います。

けれど、遠く離れた文化のなかで繰り返し現れるものがあります。

日が沈むとき、人は何かをする。

灯をともす。
香を焚く。
言葉を唱える。
しばらく立ち止まる。

太陽が沈んだからといって、ただそのまま夜へ滑り込んでいくのではありません。

昼と夜のあいだに、小さな儀式を置くのです。

一日は、いつ終わるのだろう

現代の一日の終わりは、なかなかはっきりしていません。

退勤したときでしょうか。

夕食を食べたときでしょうか。

風呂に入ったとき。

パソコンを閉じたとき。

それとも、ベッドに入ったときでしょうか。

おそらく私たちは、「一日を終えること」と「眠ること」を、かなり近いものとして扱うようになりました。

けれど本来、この二つは別のことなのかもしれません。

昼の活動を終えること。

そして、眠りに入ること。

そのあいだには、本当は少し時間があります。

何かを片づけたり、
食事をしたり、
誰かと話したり、
本を読んだりする時間です。

かつて夕暮れの作法が担っていたのは、この最初の境目だったのでしょう。

「もう眠りなさい」ではなく、

「今日という昼は、ここまでです」

と告げること。

その合図が鐘である文化もあれば、祈りである文化もありました。

灯の明るさだったこともあるでしょう。

そして、香りもそこにありました。

香りは、部屋の時間を変える

香をひとつ焚いたところで、世界は何も変わりません。

今日あったことも消えませんし、仕事が片づくわけでもありません。

しかしながら、部屋の空気は変わります。

さっきまでと同じ机。
同じ椅子。
同じ窓。

それなのに、そこへ別の香りがひとつ加わるだけで、時間の質が少し変わる。

それが香りの面白いところです。

照明を落とすことと似ていますが、光ほど目立ちません。

音楽を変えることにも似ていますが、耳を向け続ける必要もありません。

香りは、何かを主張するというより、背景そのものを書き換えてしまいます。

だから「一日の終わり」を知らせるには、案外よくできた道具なのかもしれません。

何時になったから終わり、と時計に命じられるのではなく、

この匂いがしたから、もう今日はここまで。

身体のほうが、その約束を覚えていく。

そんな終わり方です。

自分の一日に、句点を打つ

昔の作法を、そのまま再現する必要はありません。

仏壇を持たなければならないわけでも、決まった香を焚かなければならないわけでもありません。

夕方、仕事を終えたら、小さな香をひとつ焚く。

あるいは、香木を温める。

キャンドルでも、いつも使う香水をほんの少し空間に漂わせることでもいいのかもしれません。

大切なのは、「リラックスできる香り」を選ぶことではないのでしょう。

その香りに役割をひとつ与えることです。

これは、今日を閉じる香り。

そう決めてしまう。

今日がうまくいった日でも。
何もできなかった日でも。
腹の立つことがあった日でも。
まだ少し仕事が気になっている日でも。

日が暮れたら、香をひとつ。

そして、その香りが立ったところで、今日の昼を終える。

誰に見せるものでもありません。

役に立つかどうかさえ、たいした問題ではありません。

ただ、自分の一日に自分で句点を打つ。
自分だけの作法。
こころを整えて1日を終わりにする、小さな習慣。

そんな古い手続きの横に、もう一度座ってみてもいいのだと思います。

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